シテフォルク・ヴァレンチンさんのお話

シテフォルク・ヴァレンチンさん

先月、ウクライナからシテフォルク・ヴァレンチンさんが来日され、未来の福島こども基金の総会でご講演いただきました。ヴァレンチンさんはチェルノ ブイリ事故被災者で、息子のミーシャさんを、昨年、甲状腺がんで亡くされています。チェルノブイリの経験から学び、今後の日本を考えるために、ヴァレンチ ンさんにその経験をお話していただきました。なお、原発を問う民衆法廷(東京)、福島県白河市原発災害情報センターでもそれぞれ20日、24日にお話をさ れました。

ヴァレンチンさんのお話

こんにちは

この度は、日本にお招き下さり、さらに息子のミハイル(ミーシャ)の身に起きた不幸についてお話する機会を設けていただいたことに感謝申し上げます。

チェルノブイリ子ども基金の支援のお陰で、ミーシャは、1997年にマルセールの内分泌病院のアンリ教授により、4回目の手術を受けることが出来ました。

知られていますように、1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所で一連のテストが行われ、その結果恐ろしい大事故が起きました。当時、外 国の多くのマスコミでは、人々の命に危険があることが伝えられ、テレビの画面には、中央ヨーロッパや東ヨーロッパでの風向きが地図で示されていましたが、 その時キエフをはじめウクライナやベラルーシ(ベロルシア)の様々な町では、メーデーを祝うデモやパレードが行われていました。こうした情報を隠した責任 者たちは、後になって、住民たちがパニックを起こすのを防ぐために、情報を明らかにしないことを決めたのだと説明しています。

事故の情報が隠されたことや政府の指導部がマヒ状態に陥ったことが、悲しむべき被害をさらに大きなものにしました。もし、すぐさま人々の避難が行わ れ、この事故が起きたことや必要な予防措置が講じられさえすれば、その被害はもっと小さくて済んだかもしれません。私には、日本の皆さんの辛さが分かりま す。日本の福島第一原発事故の被災者の皆さんが避難先で専門の測定器を使って甲状腺の被曝について調べられている様子をテレビで目にした時、その辛さを自 分のこととして理解できるのです。私は、チェルノブイリの事故によって、平和目的の原子力というものが全く安全なものではないことが世界に知れ渡り、福島 第1原発の事故によって、それが間違いないことが裏づけられたと思っています。

かつてベラルーシでの保養を終えた子どもたちを、キエフに赴いて出迎えた時、その様子を目にするのは、私にとって大変辛いことでした。なぜなら、保 養から戻った子どもたちは皆、甲状腺ガンという一つの病気を抱えた集団だったからです。私の隣を12歳から16歳までの、そうした男の子や女の子たちが歩 き過ぎて行きました。4回目の難しい手術をフランスで受けた後、ミーシャは、とても幸せそうで、私たちは彼とともに過ごしました。そして、翌年も彼はある 家族に招待されてフランスを訪ねました。そこで検査を受けて、全てが良好でした。その後、彼は、地元のゴルロフカ外国語大学を卒業しました。そこでの専門 を活かした職に就くことはありませんでしたが、試験に合格して銀行に就職しました。さらにその後、顧客融資部門の責任者のポストにまで昇進も果たしまし た。

しかし2008年、世界的な大きな経済危機にウクライナも見舞われて、リストラに遭い、同じ年、チェルノブイリ原発事故によって2級障害者の認定を 受けていたミーシャは、認定の再審査に伴う検査を受けて腫瘍が見つかりました。彼は、自身の命が尽きるまで、その最後の日々まで、この病気と闘い続けまし た。彼は、定期的にキエフにある診断センターへ通院し、そこで治療を受けていました。しかし、ミーシャは、決して自身の病気については語りませんでした。 私たち家族を心配させまいとしていたのです。いつも、すべて順調で問題ないとばかり話していました。彼には多くの友人たちがいましたが、実際、彼らの多く もミーシャが、それほど深刻な病気に罹っているとは知らないほどでした。

今度の11月で、私の妻、つまりミーシャの母親が亡くなってから2年となります。彼女は、いつも診断結果を聞くためにキエフに行き、ミーシャと一緒 に手術に向かいました。いつも息子に付き添っていました。そして、2008年にミーシャに新たなガンが見つかってからというもの、妻はストレスを抱え続 け、息子の身を案じて涙に明け暮れました。そうして彼女の心臓は、持ちこたえることが出来ませんでした。ミーシャの最後の4日間、私は彼と一緒に病院で過 ごしました。彼に付き添って、色々と手助けをしました。彼が、その心の奥で本当のところ何を思っていたのか、どんな思いを抱いて最後の日々を過ごしていた のか、今となっては私には知る由もありません。しかし、ミーシャは、強く、勇敢な人間で、涙一つ見せることがありませんでした。ある時、ミーシャの病状が 重く、ドネツクの町から来る心臓外科医を待っているということを、私と入院先の医者とで話していた時、彼はそれを偶然に耳にしてしまいました。その時彼 は、そのことを聞いて、「お父さん、もう退院の話?」と聞いてきました。私は、「ミーシャ、違うよ。だだ、今後の治療の話し合いのために心臓外科医を待っ ているだけだ」と答えました。 私のこの言葉に対して、彼が、「僕は強い人間だから、最後まで闘う」と答えたのを覚えています。

ミーシャは、私と過ごした4日目に亡くなりました。心臓は持ちこたえることが出来ず、鼓動を止めました。蘇生術を施しましたが、助かりませんでし た。こうして私は一人残されました。妻をなくし、息子をなくしました。7月19日は、ミーシャが亡くなって、ちょうど1年になります。どんな慰めも、私の 苦しみをやわらげてはくれません。本当に、放射能というものは目に見えず、どのような対策をとろうとも、段々と人を死に追いやるものなのです。チェルノブ イリ原発から離れた場所にいたミーシャがなぜ、病気になったのかと疑問に思われるかもしれません。しかし、1994年から1998年までの間だけで、事故 当時14歳以下の子どもだった人々の間では4千例以上の甲状腺ガンが見つかっているのです。専門家たちは、その大半がチェルノブイリ原発事故の影響による ものだとみています。私には、この話を書いたり、話したりすることが今でも辛いのです。私の心の傷はいまだ癒えず、いつも亡くなった息子のこと、妻のこと を思い出してばかりいます。私の心に安らぎはないのです。

福島の地に続いて、再びこのような原発事故が繰り返されることのないように、そして皆さんのもとには、このような苦しみと悲しみとがもたらされることのないように心から願うものです。

敬具

ヴァレンチン

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