今中哲二さん講演「被ばく後を生きる」その1

2014年5月25日(日)に、いわき市文化センターで行われた京都大学原子炉実験所の今中哲二さんの講演
「被曝後のこれからを考える。飯舘村の初期被曝線量評価からみえてきたもの ストロンチウム90の行方」を3回にわたってご紹介します。
 問題は最早、汚染による被曝をどこまで「ガマンするか」ということ。「福島後の時代」(放射能汚染と向き合わなければならない時代)に私たちはどう生きるか、非常に示唆に富んだお話です。

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 みなさんこんにちは。私が勤めているのは京都大学原子炉実験所というところですが、そこには、日本の原子力開発というものはおかしいのではないかと考える仲間がおり、30年以上前から、日本がこのまま原子力発電に依存するような世の中になったら大変なことが起きる可能性があるということを言い続けてきました。原発で起きる最悪の事態──1986年のチェルノブイリ原発事故から28年が経ちましたが、私なりに、また私の仲間は、チェルノブイリの事故がどういう事故だったのかをきちんと調べて、みなさんに原発の持つ危険性などをお知らせしてきました。

 とにかく日本はイケイケドンドンで原発を作り、いつの間にか原発列島になってしまいました。そして福島の事故が、地震と津波をきっかけに起きてしまいました。私自身、事故を受けて、ある意味びっくりしました。いとも簡単にあんな事故が起きるということ、そしてそれに対して日本政府はまともな対応が取れないという有様に愕然としました。

 あのとき、私自身に何ができるかを考えました。私は放射能を測ったり、みなさんの被曝がどれ位か調べることを専門の一つとしてやってきたので、まずは福島現地の汚染を調べておこうと思い調査に入ったのが飯舘村でした。それが2011年の3月28日・29日です。

 それから3年半が経ちました。福島の事故が起きてから、私の役割はだいぶ変わってきたように思います。それまでは、「事故が起きる可能性があるよ」「危ないよ」と言っておけばよかったのが、いまはどこも放射能だらけ、東京も放射能まみれです。

 福島の放射能汚染は今後何十年と続きます。私たちは情けないことに、その汚染に対してどう向き合うかを考えなくてはならない、そういう時代になりました。その中で、放射能(放射線)とは何か、ベクレル(Bq)とは何か、シーベルト(Sv)とは何かということをみなさんにきっちりと説明して理解していただくことが、私の役割になりました。

◆飯舘村

 飯舘村はいま現在、村民全員が避難していますが、政府は順番に村人を帰す政策を立てています。しかしやはり、帰るかどうかを最終的に判断するのは村の人たち自身であるべきです。そのためには、村の人たちは放射能や被曝のことを知り、ある程度確かな情報に基づいて判断していく必要があります。そのときに、私の知恵なり知識が役に立つのではないかと思っています。

 この4月にも調査に行きましたが、飯舘村はいま除染の真っ最中です。作業員の方は2000人位で、何をしているかと言ったら、田んぼの土を剥がして袋に入れて、それを積み上げている。地元の人はこれを「仮仮置き場」と言っています。除染という名の環境破壊です。新しい土を入れてあるので、ゲートボール場がズラッと並んだような状態です。

 しかし、果たしてこれで村の人が帰る気になれるのだろうかと疑問に思います。確かに、田んぼの放射能は減りますが、山はそのままです。今年の2月に飯舘村の村民に対しておそらく復興庁が行ったアンケート調査では、「戻りたい」「戻ろう」は全体の約2割でした。とくに若い人はほとんど戻らないと決めています。村の住民の意向とは無関係に政府や県、村が大変なお金をかけて除染をしている、私からすれば、とんでもない税金の無駄遣いです。

 福島の原発事故が起きてから、私には理解できないことがいっぱいありました。

 3月11日に地震と津波が起きて電源喪失し、格納容器の圧力が上がっていきました。原子力の専門家であればその段階ですでに、スリーマイル原発事故と同じ事態が起きている、炉心がやられているということは分かります。あとは、どこで食い止められるかという話です。でも、テレビをつけると東大の先生が、「大丈夫、大丈夫」「大したことはありませんよ」と言っている。ヘンな先生やな、と思っていました。

 その後、事態はどんどんひどくなり、原発の周り20キロ圏内の約8万人の人たちが避難しました。けど、その避難した地域の汚染はどうなっているのか、そのデータがその後2週間位、全くといっていいほど出てきませんでした。だったら自分で測ろうと思い、飯舘村を訪ねたのが3月の末です。

 飯舘村にホットスポットのような線量の高い所があるということは聞いていましたが、びっくりしました。2011年3月29日、村の南側にある長泥という地区で、空間の放射線量を測ったら、だいたい1時間辺り30μSv。私は日頃、研究用の小さい原子炉の中で作業したりすることもありますが、原子炉というのは人の出入りが制限されていて、中でも20μSv/hを超えるところは「高放射線量率区域」(普通の作業員はみだりに入るな)と管理部が標識を貼っています。

 ところが、それを超える30μSv/hの中で、普通に人々が暮らしている。それは信じ難い状況でした。浪江町から飯舘村、福島市にかけて大変な汚染が起きたのは3月15日の夕方から夜にかけてです。放射能の濃い空気(塊)が流れていき、そのときに雨と雪が降り、放射能の塊と一緒に地面に落ちました。

 土を測定することで、どういう放射能がどの位入っているかが分かりますので、そこの土をサンプルに持って帰りました。2011年3月29日に採取したデータですが、それをもとに3月15日の夕方に、ここら辺りがどの位の放射線量があったのかを推定することができます。おそらく150〜200μSv/h位だったはずです。福島市内は23μSvでした。

 去年、飯舘村の人に、最初の頃にどの位被曝したかということについて聞き取り調査しました。長泥地区の人と話をすると、「3月15日に、白装束の人たちが車に乗ってやってきてね、測定器を持っていて測っていった。数字を教えろといったけども、教えてくれなかった」と言います。だから、知っている人は知っていたんですね。100μSvとか200μSvというのは、もうそこに人は住めない、長居をするなという数字です。その白装束の人たちも専門家ですから、それはそう思ったと思いますし、きっとどこかで報告もされたと思います。でも、何も対処はなされませんでした。

◆日本の原子力防災システムもメルトダウン

 私が最近思っているのは、福島の原子炉は3つメルトダウンしましたが、それと同時に、日本の原子力防災システムもメルトダウンしたということです。ご存じのように、地震津波が起きて福島の原発がおかしいという連絡は、その日の夕方には東京に入っていました。菅直人総理が原子力非常事態宣言を出したのが19時2分か3分ですが、それをゴーサインに日本の原子力防災システムがパッと立ち上がるシステムのはずでした。

 首相が原子力災害緊急対策本部を立ち上げ、本部長は内閣総理大臣、事務局長は原子力保安院。それと同時に、原発から約5キロの所にあるオフサイトセンターに現地災害対策本部が立ち上がり、そこには、電力会社、原子力安全保安院、地元の自治体、警察、消防、自衛隊、全部の関係者が集まり事故対策の司令部になるはずでした。が、全く機能しませんでした。

 3月12日の午後5時過ぎに周辺10キロ圏の人たちに対して避難指示が出ていますが、オフサイトセンターに集まった人たちはそれをテレビで知ったといいます。それを聞いて、私は愕然としました。ここで、飯舘村なり浪江町なりに高い放射線があるということがきちんと報告されて、しかるべき専門家が判断していたら、もっと速やかに避難指示なりを出せたはずです。

 放射線量が一番上がったのは15日ですが、いったい何が起きていたのでしょうか。まず3月12日に1号機が水素爆発しました。原子炉そのものが爆発したのではなく、原子炉が溶けて、その中から水素が出て、それが屋根に溜まって屋根が吹っ飛びました。このとき、放射能の塊は北の方に流れていきました。それで南相馬で線量が上がりました。

 次に3月14日11時に爆発したのが3号機で、そのときの放射能の塊はほとんど海の方へ行きました。その後、14日の夜中から2号機がおかしくなり、格納容器が壊れて大量の放射能が放出されました。それは15日の未明にいわきを通って、茨城、千葉、東京まで到達しています。そして午後からは風向きが変わって飯舘村・福島市に行き、雨雪となって地面に落ちた。いわきは幸いなことに、上空をスーッと通ったので、地面の汚染レベルはかなり低く済んだ。それが3月15日、16日に起きたことです。

◆初期被曝
 
 私たちは3月29日、車を走らせて車の中で測り、またポイントポイントで止まって外で測定していきました。一番高いところで、車の中で20μSv/h、車の外で30μSv/hありましたが、飯舘村全体がほぼ車外で10μSv以上/hでした。そして3年後、一番高いところでも車の中で4か5μSv/hにまで下がっています。2011年3月29日を1とすると、半年後にだいたい半分、1年後に2分の1〜3分の1、4分の1位になっています。3月29日に30μSv/hということは、3月15日には150〜200μSv/hあったと推測できます。

 長期的にはどうなるか。どれ位まで下がっていくのか。自然界には元々、自然界の放射線レベルというものがあります。福島は低くて0.04〜0.05μSv/hで、大阪は0.05〜0.06μSv/h。私は生まれ育ちは広島ですが、広島市内は花崗岩が多いので元々高く、0.07〜0.1μSv/hあります。

 私が飯舘村の人に言っているのは、除染をする前にまずじっくり考えてほしいということです。50年、100年先を見越して、どうするのかを考えないとどうしようもありません。
 これからの被曝については私たちも測定もしますし、行政も測定すると思います。でも、よく分からないことがあります。一番最初に村のみなさんがどの位被曝したのかということは、その行動にを調べないことにはなかなかわかりません。

 国会事故調査委員会の報告書によると、原発に近い双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町の人たちは、避難指示が出た12日と13日中に、ほとんどの方が避難されています。ですから、大量の放射能放出が起きたときにはすでに避難されていた人が多い。避難がもっとも遅かったのは飯舘村でした。結局、原発に近い人よりも30〜40キロ離れた人のほうが、初期の被曝は大きかったのではないかと思っています。

 それを知るために、まずはきちんとした汚染地図を作ろうということで、いま調べています。使っているのはアメリカのデータです。アメリカには核安全保障局という、世界中の核惨事や核テロ、核戦争を想定して、何かあったときにすぐに行けるように365日、24時間スタンバイしているチームがあります。

 3月14日、彼ら33人の専門家は大きな飛行機1台でアメリカを出て、東京の横田基地に着いたのが、3月16日の未明だそうです。3月17日からヘリを飛ばして、福島上空300メートルの地点をずっと測っています。アメリカがすごいのは、そうして測った生データをHPで公開しているんですね。それを見て、私の知り合いの金沢青陵大学の澤野伸浩先生が、「このデータを使えば地図ができる、それぞれが住んでいるところの汚染レベルを見積もることができる」と言いました。国土地理院の地図にデータをプロットしすることで、村の1軒1軒のレベルを調べることができると。

 飯舘村で大きな汚染が起きたのは3年前の3月15日、それは間違いありません。その時、そこにどの位の放射能があったか、家の位置に居た場合の被曝線量がどの位かというのは、私たちが測定しているデータから推定できます。しかし、その個人個人がどれだけ被曝したかは、その人がいつ避難したか、当時どこにいたかなどの行動の情報がなければ計算することはできません。それを知るために昨年、聞き取りプロジェクトをメンバー25人で行いました。
 飯舘村の人口は6000人で1700戸。3世代・4世代で暮らしていらした方も多く、仮設・借り上げ住宅に避難すると1700から3400戸と、なんと倍に──家族が離ればなれになっているというので驚きました。1700戸のうち496軒の方から聞き取りをして、1812人の情報が得られました。回答者の年齢分布は飯舘村全体の分布とも似ているので、私たちのアンケートは村全体を反映していると考えていいと思います。

 平均で7mSv/h。一番多かった方が23.5mSv/hで、10歳未満は少ない。これは子どもが早くに避難したことが如実に表れていて、お年寄りになるほど初期被曝量が多い。飯舘村が「計画的避難区域」に指定されるのは4月22日で、それからみなさん避難されたので、それまでの時期の被曝がこの位ということです。男の人と女の人を比べると、男の人が若干高くなっています。

 聞き取りをしていて気になったのは、事故の直後、村から避難していた人たちがいったん戻ってきて、そして4月22日以降にまた避難したということです。3月11日に地震・津波が起きて、村の約半分の方は避難してました。人口が一番底になっているのは3月21日で、また少しずつ戻ってきて、4月22日にまた避難した。

 とりあえず避難はしたけれども、親戚や知り合いの家にはもう長居をできなくなった、あるいは会社が再開するからなど、その理由はさまざまです。そして3月21日というのは、長崎から山下俊一先生のグループがやってきて、福島市で最初に講演した日です。彼の話を聞いて、「あぁ、放射線は怖くないんだ」と、安心して戻ったという方もいます。

 いずれにしろ、日本政府がまともな判断ができていれば、3月20日頃には村民を避難させようと判断できたはずで、避けられた被曝です。

◆食べ物の汚染

 みなさんが一番気にされるのは食べ物の汚染ですね。農協などの方はおっしゃっていますね、「いまはかなりの部分を検査していて、全部基準値以下なので安心ですよ。検出限界以下です」と。ただ、「ND」(検出限界以下)というのは、「ない」ということではありません。その気になって測れば少ないなりにあります。

 私の考え方は、数字そのものを知りった上で判断して、食べるなり飲むなりをすべきということです。ちょっと気になる数字を紹介しますと、例えば牛乳があります。2013年7月にとった福島の牛乳のセシウムは0.3Bq/kgでした。同じ頃、北海道で9月にとった牛乳からは0.08Bq/kgが出ています。これは何かと言ったら、核実験の名残です。福島の事故があろうとなかろうと、それ位の汚染は以前からあったということです。
 菌床のシイタケは二本松のものを測ると5.6Bq/kgです。北海道産は0.8で、九州の干しシイタケは6Bq/kg、これらも核実験の影響です。

 核実験によるセシウム汚染なのか福島の事故によるものなのかどうかは、核実験由来にはセシウム134がないので、134が含まれているかどうかで区別することができます。ただセシウム134の半減期は2年です。いまはまだ区別がつきますが、あと10年もしたら核実験の影響か福島由来かは、セシウム137を見ただけでは判断できなくなります。

 参考までに、飯舘村で放ったらかしにされていた原木のシイタケを測ったら1万5000Bq/kgありました。これを食べたら、あっという間に内部被曝は増えてしまいます。

 つまりはこういう数字に慣れて、それぞれの人が判断する。それしかないのだろうと思います。

(2)につづく

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