黒部信一 「健康相談会と鼻血論争」

 私は、子どもたちを放射能から守る小児科医の会に参加していますが、当初健康相談を開始した時に、できるだけ初期被ばくした時の状況を書き残すように勧めました。そして、相談時には、覚えている範囲で書いていただきました。それが、その後初期被ばくの程度が判明する時に役立つと考えたからです。

 果たして、それは正しかったのです。避難した多くの人──特に原発事故で避難した人たちは、その当時の記憶が鮮明な方もいれば、よく判らずに避難して余り覚えていない方もいます。年月が経つと次第に忘れていきますし、正確ではなくなります。

 私は、山田真先生の呼びかけで、福島の健康相談会に初めから参加しました。その時には、まだ初期の被ばく量が判っていなくて、特に原発から20㎞圏内と飯舘村で多いと思っていましたが、いわき市の北部も被ばくしていたのです。当初の健康相談会の目的は、避難するかどうか迷っている人の背中を押すことでしたが、その後は鼻血や下痢などの相談が出て来ました。

 日本では、情報が公開されず、もっとも初期はスピーディも停電で動かず、でも動き出してからの情報は公開されず、米軍の上空からの測定がされていることも知らされませんでした。後々のために、しっかり記憶が薄れないうちに記録を取っておくように勧めました。

 そのことの重要性が今になってようやく明らかになりました。今まだ東電や日本政府は情報を公開していませんが、爆発直後に現地に入った原子力学者や報道記者の記録、公開されている米軍の測定情報などで、当時チェルノブイリ原発事故並みの被ばくがあったのではないかと推定されています。そのため、避難しなかった人たちが、大量の初期被ばくをしたことが判って来ました。

 原発事故があったと知らされたとき、真っ先に避難したのは、放射線の知識のある医師をはじめとする医療関係者と物理学者、理科の教師たちでした。私は、まず現地の妊娠中の女性と子どもたちの避難が必要と思いました。周産期学会は、学会ぐるみでそれを呼びかけ、入院中の妊婦を東京、埼玉、千葉、神奈川へ避難させました。チェルノブイリ子ども基金は、50㎞圏内の避難を呼びかけ、アメリカは独自の測定で、50マイル(80㎞)圏内の避難を呼びかけ、その後アメリカ、フランスなどは、自国民の日本在住者にチャーター機まで出して避難させました。

 実際に被ばくしたのは、福島県だけでなく、関東と東北地方の山脈の東側、特に海沿いと、福島の中央でした。山脈による複雑な地形が、被ばくの程度を左右していました。初期被ばくを受けた人たちは、今後潜伏期間を経て、さまざまな病気が出てくることが予想されます。

 私たち未来の福島こども基金は、当初避難を呼びかけ、そして避難できない人たちへの支援を企画し、実行していきました。チェルノブイリの経験から、まず内部被ばくを避けるために、市民放射能測定所の立ち上げに協力し、食品の放射線量の測定と内部被ばくの測定に始まり、さらに保養にまで進めていきました。現在も最良の選択は移住ですが、できない人のための支援です。

 最近、鼻血論争がありましたが、私は当初、子どもはちょっとしたことで鼻血を出しやすく、それ程問題ではないと考えていました。しかし最近の論争の中で明らかになったことは、当時かなりの量の初期被ばくを受け、ホットパーティクルという放射能物質の細かい粒子が大量に飛び、それが繊細な子どもの鼻の粘膜を刺激したのではないかという、北海道がんセンター前院長西尾正道先生の指摘を読み、全く同感しました。それは、時間の経過と共に、鼻血を出す子が少なくなったからです。

 一般的には、子どもの鼻血はよくあり、一度出すと、ちょっとした刺激で繰り返し鼻血を出し、成長と共に出なくなります。多くは両親のいずれかが、子ども時代に鼻血を出した経験があることが多いのです。

 しかし、福島では必ずしもそうではありませんでした。そういうことで、やはり被ばく初期の鼻血は放射能のためであると考えざるを得なくなりました。ホットパーティクルなどの存在を知りませんでしたし、初期被ばくが大量であったと推定されるからです。

(ニュースレター no.7〈2014.6発行〉より)

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